刊行にあたって
中川 仁
日本における中国語の言語学的研究は、戦前及び戦後の研究が中心になるが、それ以前の背景には、「思想」及び「文学」があげられるであろう。
「思想」でいえば、江戸時代の読書階級・武士が学問として、その考え方や道理を習得し、それを政治的な立場や役職をえた時の基礎的な知識として応用し、生活のなかで実践的に運用されたものであると考えられる。それが一般社会の秩序として浸透し、この時代を反映させるきっかけとなる。
「文学」についていえば、日本語に翻訳された物語や小説からの影響を受けて、庶民が読むことのできる口語体の「読み物」の文章が生成される。また一方では出版資本主義の現れや、この時代の庶民文化にあらわれる文化背景をも促進する形態が生まれたともいえる。
ともに中国の文化を享受することによって発生した現象であるが、言語学という分野ではすでに影響はあらわれていた。それは「文字」を受け入れた時に始まり、表記形態をどのように「やまとことば」との関連性とみいだしていくのかということによる。その方策は「文字」とその読み方をどのように表現していくかを考えていくかである。そして仏典の輸入により、「文字学」「音韻論」の研究がなされた。つまり「文字」の輸入により、表記形態が生まれ、同時にその「文字」の読み方をどのように表現するかを研究し、日本語の仮名遣いにも影響を及ぼし、中国の言語は日本語を研究していく上でも接点があったことを「ことば」という視点から伺うことができるのである。
しかし戦前と戦後の「中国語」の研究は明らかに異なった二つの要素を有している。「中国語」は戦前の日本の状況を鑑みれば、一つは日本の近代化と日本の領土拡大を目的とする政策を実行するために学ばれた言語であるというものであり、もう一つは戦後の日中新時代に向けた新たな関係構築の試みを前提とした言語学習と修得である。戦後における中国語研究は戦前期に倉石武四郎氏が国策との連動性を意味したであろう中国語学習の実践的な教科書を発表し、関連する研究が端緒となったからこそ、戦後の中国との関係を安定的にするための「中国語」研究が生まれた。こうした中国語言語教育の実践は中山時子氏の中国語教育にもいかされた。中国語を文法的な概念や表記形態から学ぶものとは異なり、音声の概念から言語を理解していくという独自の学習法を構築したものである。これは、倉石武四郎氏のラテン化新文字による言語教育の実践とも重なるものがある。とくに倉石の著した『支那語發音篇』『支那語會話篇』『支那語語法篇』『支那語読本巻1・2』『支那語繙譯篇巻1・2』などは、戦前の中国語教育の要であるのはいうまでもなく、戦前及び戦中期における中国語教本として、戦後期に繋がる言語教育の根幹と位置付けられるものである。
こうした、戦前から戦後につながる「中国語」をとりまく状況を背景として、本資料集は「日本統治下における台湾語・客家語・蕃語資料」(全3巻)の続刊として、「戦後初期における中国語研究基礎資料」(全3巻)としてまとめたものである。
第1巻『ラテン化新文字による中国語辞典第1分冊~第7分冊』は、辞書編纂につながるローマ字による中国語の表記の問題に関わる極めて貴重な資料である。注音符号、国語ローマ字、ラテン化新文字、漢語拼音ができるまでの過程を現し、漢字とローマ字との関係をどのように表記していくべきかを考察する上での集大成として位置づけられる。表記の問題は日本の中国語研究者の間で、長年議論されてはいたが、結論の出るべきことがらではなかった現状があった。またラテン化新文字による表記形態は言語学者である王育徳氏の台湾語のローマ字化を考える契機にもなり、教会ローマ字の改良を模索するうえで必要な概念であった。そして王第一式、王第二式の表記形態の提示にも繋がっていく。
次に戦後の新生「中国語研究会」、「中国語学会」の研究成果としての事典及び辞典を復刻した資料が、第2巻(上巻及び下巻)『中国語学事典』、第3巻『中国語学新辞典』である。この2冊は、戦後初期及び戦後安定期、当時最新の言語学的視点で詳細に記述した内容をもち、あわせて中国語に関係する諸分野を最も全体的に網羅した現在の種々の辞事典につながる記念碑的労作である。
また、これらの資料についての解説は吉田雅子氏や明海大学大学院応用言語学研究科博士後期課程の院生である龐淼氏、馬嵐氏、賈恬立氏、土屋真一氏の協力によるものである。