「霊交」刊行にあたって
監修 阿部安成
1909年以降に設置されたハンセン病をめぐる療養所に宗教団体があることはよく知られているところである。だが、それら療養所内の宗教団体が機関紙を発行していたかどうか、あったとしてそれがどのくらいの期間にわたって刊行されていたのかは、あまりよくわかっていない。
「癩予防ニ関スル件」などの施行によって1909年に香川県木田郡庵治村(現香川県高松市庵治町)に開設された第四区療養所(現国立療養所大島青松園)では、1914年にキリスト教信徒の団体である霊交会が結成された。創設信徒5名のうちのひとり三宅官之治(1877年~1943年)は、いまも霊交会教会堂まえに記念碑があるほどに在園者から仰ぎみられた人望と仁徳のひとだった。もうひとりの創設信徒である長田穂波(1891年~1945年)は、その著作数の数で知られた文筆のひとで、彼が霊交会の機関紙『霊交』(1919年~1940年)の編集と発行をほぼ一貫して担った。
この機関紙『霊交』の創刊をめぐっては、長田と同世代の信徒である青木恵哉(1893年~1969年)が深くかかわっていた。青木はそののち大島を離れ、四国、九州での伝道を経て沖縄に渡り、臨時国立癩療養所国頭愛楽園(現国立療養所沖縄愛楽園)の基礎を築いた療養者として知られることとなる。
長田や青木よりも若く、青木と同じ部屋で療養所生活をおくったことのある石本俊市(1903年~1979年)は、大島の療養所における自治活動を長期にわたって担った信徒だった。三宅や長田のあとをうけて霊交会を率いた石本は、沖縄にいる青木とも交流をつづけていた。
大島の療養所では、こうした霊交会の信徒たちを軸に、自治、文芸、修養、矢内原忠雄など島外者との交流、芝居興行を展開していた。霊交会の機関紙『霊交』は、ただ信仰の証しを発信する逐次刊行物にとどまらず、さきにあげた療養所におけるいくつもの活動が結節する場として読むことができるメディアなのである。
霊交会は結成から100年を経ていまもなお、信仰の場となっている。その機関紙『霊交』の現存分のすべてをここにリプリントした。