推薦者のこえ
酒井シヅ順天堂大学名誉教授・日本医史学界理事長
日本の衛生制度は明治維新後、すなわち明治7年(1974)の医制制定以来、西洋の制度を迅速に導入して整備されてきた。とくに天然痘、コレラの流行に対する対策はきわめて早急に実施され、それが後の感染症予防法の基本になった。しかも、同法に続いて各種衛生法規が逐次制定され、同時に私立衛生会組織を全国に巡らせて衛生思想の普及が計られ、日本の衛生組織の骨格が形成されたことはよく知られている。
一方、衛生統計も明治4年(1871)を皮切りに医制制定後、その運用によって、世界的に誇れる保健医療統計が完備したのであった。それによって現代も疾病構造の変化やその対策が迅速に行われ、さまざまな衛生政策が実施されてきたのである。
しかし、昨今の医療問題の多様化は予測を超えた高齢化や生活習慣の変化などに従来のやり方で対応できないほころびが出てきている。単純な例をあげれば、いち早く医学の西欧化のために取り入れた医学教育は、制度の順調な発展があったと思われるかもしれないが、実は医師不足あるいは過剰時代があり、その都度、医師養成数を変えてきた。1945年以降だけをみてもGHQの指導で急激に減らし、田中角栄総理時代に各県一医科大学構想がでて、医学校が46校から80校にまで増え、その後、医師過剰ということで医学生の定員数を減らしてきた。昨今は医師不足ということから、再び、学生定員数を増やし、医学校新設構想まで出ているという。猫の目の変わるような変化に目を覆いたくなる。なぜ、こういう事態になったのか、場当たりてきな政策の結果である。医師のように養成に時間のかかる問題ですら、将来を予測した施策でなかった。それは医療問題の研究が医師、福祉関係の専門分野に偏っていたからといえる。医療は善意と努力がすべてを補うという、医は仁術の精神を大前提にしていては、問題解決にならないとは承知しながら、身動きならないのが現実である。医療問題を経済、政治、社会、人口問題など広い視点から学問的根拠をもって見てこなかったことも一つの原因である。いまほど多面的、学際的な研究が必要な時はない。とくに本書で取り上げているような史実に基づく歴史的な研究が重要になる。
無論、『医制百年史』など立派な歴史書があるが、そこで叙述されているものより、実践された具体的な記録がない。「近代都市の衛生環境(東京編)」は大阪編に続いて刊行されることになったが、ともに近代医療体制が築かれた大都市の衛生、病院に関する具体的なデータを採録し、同時にそれに派生して出てきた廃棄物、環境汚染など具体的な社会問題にも焦点を向けている。
日本の病院の特長は、他国に比べて私立病院の数が多いことである。それが昨今の医療問題の根幹に関わっていると承知している。が、なぜ私立病院が林立したのか、それにメスをいれようとした時代もあった。そこで公立病院を優先させたが、現在は公立病院の存続さえ危うくなっている。その背景は予測できるようで簡単な結論は得られていない。本書には多くの明治、大正時代の病院が誕生し、発展した資料も収載している。日本病院史が少ない現状では、地道な資料研究によって日本の医療問題の根幹に関わる問題解決にヒントが得られるのではないだろうか。
疾病についてみると、結核はかつて日本の国民病といわれたが、いまはその位置をガンなどに譲っている。結核が減少したのは、戦後、抗菌剤が見つかって結核が容易に治るようになったからだという人が多い。かつて英国の結核を調査をした有名な研究がこのことを否定している。結核患者の死亡率が抗菌剤の発見よりはるかに早くから徐々に減少していた。社会環境、社会資本の充実が、医学による治療より勝っていたを如実に示した研究である。多面的なフィルターをかけることで、さまざまな感染症の流行の形態の特長が見えてくるだろう。医療と社会の関係でも、諸外国と比べることで、いままで気づかなかった要素もみえてくることもあるだろう。その意味からも多面的な資料を収録しているこの資料集に期待する所が多い。
ところで、医療の原点を顧みると、疾病の予防、疾病からの回復である。対象となる疾病は千差万別である。個人の能力を超えて伝搬する感染症に対しては、近代衛生諸規則による集団的に防御が効果を上げてきた。とくに日本の近代医学は、宗教と迷信をできるだけ排除することから始まった。しかし、江戸時代の神社仏閣は重要な医療機関であった。神仏が日常生活と切り離せない存在であった。それだけに近代医療が病人から断ち切ったと考えた神仏が、現実には、宗教観が日本人の医療行動に反映していると思う。国民の衛生意識には、江戸時代までに涵養されてきた日本独特な生活習慣、食習慣が衛生行動の底流になっている可能性は充分にある。それと直接関係があるとは思わないが、合理的な医療システムが作られても、ドクターショッピング、大病院志向、名医信仰などの医療行動をどうしたら把握することができるだろうか。本書に組織的に収載されるさまざまな資料を比較したときに何か見えてくるのではないかと期待する。とくに宗教学、民俗学においてもこの資料集が役立つのではないかと期待する。